「会社の価値」は、生き様の“映し鏡”である|『CAIXA』副編集長・小池真幸
ふと周囲を見渡すと、ほんとうに多くの人たちが、「会社の価値」について話をしていると気づく。
フリーランス、副業、「会社に依存しない、自由な生き方」……。
かつて存在した、20世紀的な「会社の価値」に疑問を差し挟むことばを、よく見かける。
編集ギルドHuuuuと編集集団モメンタム・ホースの2社が合同で運営する『CAIXA』の特集「会社の価値」内で、副編集長である僕・小池真幸もコラムを書くことになった。
いい機会なので、これまでの人生を振り返り、「会社の価値」についてどう考えてきたのか、思い返してみる。
思索を巡らすうちに、気がついた。
資本主義社会において、「会社の価値」について考えることは、その人の生き様の“映し鏡”となるのではないか、と。
正直、「CAIXAの一発目の特集だし、ストレートに『会社』をテーマにするのが良いのでは?」といった見切り発車で決めた側面も否めないテーマだが、あんがい良い線を捉えていたのではないかと思う。
ということで、僕にとっての「会社の価値」を綴っていく。
大半の人にとってはどうでもいい、きわめて個人的な話が続いてしまうが、それでもいい。
このCAIXAは、「一人ひとりが自分の好奇心と向き合い、答えのない問いと向き合い、人の話を聞き、思考を重ねる。そして、ざっくばらんに『答えのようなもの』を投げ入れていく」箱なのだから。
「会社の価値=社長の金儲け」?
はじめて「会社の価値」について思いを巡らせたのは、高校生のときだ。
大学進学にあたって、多少なりとも将来の生き方について考えざるを得なくなったからだ。
音楽と文化祭にしか関心がない、ほんとうに視野狭窄な少年だったので、「会社の価値=社長の金儲け」としか思っていなかった。
「よくわからないおっさんの金儲けに資するために働くなんて、むなしいにもほどがある。せめて世のため人のために働けるよう、公務員か教師になろう」という、きわめて保守的な考え方を持っていた。
大学受験のときも、「商学部や経済学部なんて、お金儲けのために存在している学部だ。法学部も、なんだか実学臭が強くて嫌だ。できるだけお金儲けとは縁がなさそうな学部に行こう」と、いま思えば中二病以外の何者でもない短絡的な思考で進路を決め、人文系の学部に進学することになった。
大学に入ってからも、「会社」への苦手意識は消えなかった。アルバイトをはじめるも、どの仕事もなかなか続かず、職場を転々としていた。
その傍らで、“人文系知識人”のワナビー意識だけをこじらせていき、いま思えばよく理解もせずに、たいていが資本主義やビジネスに批判的な立場を取っている評論や思想書を読みかじり、ますます「会社=金儲け」への嫌悪感を募らせていった。
僕が大学生だったのは、2010年代前半。いわゆる「ゼロ年代批評」の残滓をすすっていたのだと思う。「資本主義=一歩距離を置いて警戒すべきもの」というステレオタイプな左派的思考にかぶれる、いま思えば痛々しい学生だった。
「会社の価値=性悪なお金儲け」と思い込んでいたのだ。
会社は「世界を変える手段」。カリフォルニアン・イデオロギーの果てに
転機が訪れたのは、大学生活の後半。
アルバイトを転々とするなかで、ついに長続きする仕事を見つけた–––とあるBtoB SaaSサービスを運営する「スタートアップ」だ。
それまで「意識高い=はしたない」といった価値観で生きてきた僕が、対極に位置する価値観がはびこるスタートアップでアルバイトをするようになったのは、ただの偶然だった。
ちょうど「良いアルバイトはないものか」と思っていた時期に、「知り合いの知り合い」くらいの関係値の人が募集していたのが、そのスタートアップでの仕事だった。
偉そうにアルバイトをこき使ってくるおじさんやおばさんもいなくて、まるで大学のサークルかのように和気あいあいと働いている職場の雰囲気が気に入った。オフィスにあるコーヒーやお菓子を自由に飲み食いできることすら、当時の僕には新鮮だった。
つねに金欠状態の大学生ではあったし、ちょうどサークル活動も学業も落ち着いてきた時期だったこともあり、アルバイトとしての割も良かったそのスタートアップに、気づけば入り浸っていた。就職活動をはじめた頃には、「社員にならない?」というお誘いまでもらえた。
居心地の良さはもちろん、その会社の未来には素直にワクワクしていたし、面倒な就職活動に辟易していた気持ちもあったので、結局そのまま社員になった。
働けば働くほど、かつてあれほどまでに嫌悪していた「資本主義的なもの」への認識が改まっていった。僕が社員になることを決めた頃、ちょうど大きな資金調達も果たし、社員数も10人から40人ほどに膨れ、明らかに勢いに乗っていた。
「Googleを超えるサービスを作る」と本気で語るCEOの姿に惹かれたし、僕自身も、「このサービスを成長させることで、社会変革にコミットするんだ」と本気で考えるようになっていた。会社の成長にあわせて、自分も“圧倒的成長”を果たすべく、スキルアップに励むようになった。
気がつけば、僕にとっての「会社の価値」は、「世界を変える手段」であり、「生きがい」になっていた。
やや雑な議論にはなるが、グローバル資本主義が高度化した現代が「『経済』の時代」であることは、ひとつの真実だといえるだろう。ヒッピーのカウンターカルチャー的思想と、ヤッピーのハッカーマインドが結合して生まれたカリフォルニアン・イデオロギーは、もはやグローバルなビジネスマーケットの主流派となりつつある。
「政治や文化ではなく、ビジネスで世界を変える」という考え方が、共通了解となりつつあるのだ。
以前、哲学者の千葉雅也さんにインタビューした際、「かつての若者がロックバンドを組んだのと同じように、現代の若者はスタートアップに踏み出す」と語ってくれたが、現代における「会社の価値」を端的に言い表しているともいえる。
その後、2018年より編集者/ライターという“裏方”としてスタートアップ業界にコミットするようになったが、スタートアップを応援する気持ちは高まっていくばかりだ。
フリーランスになり、経営ロールを担ってはじめて見えた「会社の価値」
職種以外に、もうひとつ変わったことがある。
「会社員」ではなくなったことだ。
モメンタム・ホースに所属はしているものの、形式としては「フリーランス」の編集者・ライターとして仕事をするようになった。
今では、縁あってモメンタム・ホースの経営ロールを任せてもらえるようになり、手探りだが小さな会社の「経営」にも携わるようになった。
2019年夏に実施した、モメンタム・ホースのオフサイト合宿にて
すると、これまでには見えなかった「会社の価値」が見えてくるようになる。
会社員からフリーランスに転身したからこそ感じる、「制度」の強さ。週休2日制、定時、オフィス……。適切に休みつつ、一定量の仕事を担保する目的で、強力な効果を発揮していたと気づく。
最近は、モメンタム・ホースの組織のあり方を考えるうえで、「フリーランスであるメリットはなんなんだろう?」「社員になることでどう変わるのか?」といった問題群に向き合っている。まさに「会社の価値」に頭を悩ませているのだ。
「会社」と一切関わらずに生きていくのは、無理。
こうして半生を振り返ってみると、自分自身の生き様にあわせて、「会社の価値」が移ろっていると気づく。
これまでの日本の歩みを雑に振り返ってみても、「会社の価値」はまさに、社会のあり方と個人の生き様を如実に反映するものだった。
たとえば、昨今は「旧時代的だ」と槍玉に挙げられることも多い、いわゆる“昭和大企業”的な「会社の価値」も、当時の社会状況をダイレクトに反映したものだった。よく論じられることだが、20世紀後半の日本において、「会社の価値」は社会保障でもあり、「会社は家族」だった。
反面、資本主義的な価値観が薄れていた戦時中には、「会社の価値」よりも「お国のために」が優先していた。
考えてみれば、当たり前の話だ。
「資本主義」とは、「会社」が主体的なプレイヤーとしての役割を担う社会システム。そこで生きる僕たちにとって、会社と人生を切り離すことは難しい。
ニートだって専業主婦だって、「会社」からサービスを享受している。「会社」と一切関わらずに生きていくのはほぼ不可能だ。
「会社の価値」を考えると、どうしたって、自分自身の生き方、その背景にある社会のあり方に行き着いてしまう。
会社は、人の生き様の“映し鏡”なのだ。
『CAIXA』副編集長としての覚書
最後に、副編集長として今後『CAIXA』でやっていきたいことを決意表明し、締めとしたい。
『CAIXA』編集長・友光だんご(写真左)と、ローンチに際して。僕(写真右)の表情が固い……
雑誌制作や、音楽ストリーミングサービスを利用したコンテンツなど、形式面でもたくさん遊んでいきたいと思っているが、ここでは今「やりたい!」と思っているテーマを2つ挙げる。
ひとつは、「イノベーションと政治」。
かつてはプレイヤーとして、今は裏方として、かれこれ5年近くスタートアップエコシステムに関わってきたが、最近は「スタートアップ“だけ”じゃ、本当に世界を変えるのは難しい」とも思うようになった。
ここ数年、印刷業や製造業といった“レガシー”業界を変革するスタートアップが勢いを持つようになったこと。GDPR(EU一般データ保護規則。個人情報の保護という基本的人権の確保を目的に、企業による個人データの取得利用を規制するもの。EUで2016年に可決、2018年に施行された。)をはじめ、全世界的にテック企業への反動が沸き起こるようになったこと。これらは、スタートアップ“だけ”で戦うことの限界性を、端的に示しているといえるだろう。
既存産業とのコラボレーション、技術革新の倫理……広い意味での「政治」的な観点からスタートアップを考えることが、今まさに必要なのではないだろうか。
直近だと、「アカデミズムとスタートアップの結節」「現代に潜む“権力”」といったテーマで、コンテンツをつくっていきたいと思っている。
そして、もうひとつは「ベッドタウンの脱・ゴーストタウン化」だ。
僕は、神奈川県のベッドタウンで生まれ育った。街の年齢と自分の年齢が大差ないような、新しく、「開発」された地域。
「ベッドタウン」的なものについては、これまでも数多くの議論が重ねられてきた。
90年代には社会学者の宮台真司が「さまよえる郊外」として批判し、ゼロ年代にはマーケティング・アナリストの三浦展が「ファスト風土化」として問題提起。近年では「団地萌え」ブームなどもあった。
基本的には、否定的に論じられるか、物珍しいものとしてニッチ趣味化するのが大半だ。
しかし、僕にとっては、誰がなんと言おうが、ベッドタウンが故郷だ。無機質に思えるようなマンションや、つくりものの植栽が、心を落ち着かせるのだ。似たような感覚を抱いている同世代は、少なからずいるのではないだろうか。
ベッドタウンは、いま危機に瀕している。僕自身もそうだが、ベッドタウンで生まれ育った子供達は、大人になるとベッドタウンを出ていくからだ。僕の地元でも、ベッドタウンはどんどん高齢化している。近い将来、「ゴーストタウン」化が進んでいくことは間違いないだろう。
この広大な土地、つくりものかもしれないが住みよい土地を、無駄にするのはもったいない。リモートワークが普及し、都心に住む必要性がだんだんと薄れていくいまだからこそ、ベッドタウンの新しい価値を、考え直す意味があるのではないだろうか。
こんな風に書いておきながら、来月にはまったく別のことを言っているかもしれない。けど、それでもいい。
CAIXAは、「一人ひとりが自分の好奇心と向き合い、答えのない問いと向き合い、人の話を聞き、思考を重ねる。そして、ざっくばらんに『答えのようなもの』を投げ入れていく」箱なのだから。
みんなが、好き勝手して遊べる場所に、育てていきたい。
(文/『CAIXA』副編集長・小池真幸)