「わからない」ことが怖かった、あの頃の私へ|寄稿:菊池百合子
この世界には、わからないことがある。
その事実を恐ろしいと感じるようになったのは、いつからだろう。
教育にお金をかけてもらえる家庭に生まれ育ち、小学生の頃から塾に通って中学受験をして、私立の中高一貫校に入れてもらえて。
新しい出会いへの期待を抱えて飛び込んだその先には、同じように育ってきた人しかいない世界があった。先生もまた、そういう人ばかりだった。
ここに中高6年間、ずっといるのか。
「あなたは恵まれていて、苦労も挫折も知らない」「だから人の痛みがわからない」
中学に入学してまもなく、母は口酸っぱくして私にそう言い聞かせるようになった。教材の営業のためにさまざまな高校を回る仕事をしていた母は、高校を卒業したら家計のために就職を選ぶと決めている同世代の存在を語るようになった。
たしかに、その存在を知らなかった。私のいる中高一貫校は、大学進学率がほぼ100%だったから。
私に見えている世界は、とても狭いらしい。この世界には、知らないことがたくさんある。その実感は、中学生の私を強く焦らせた。
わからないことがたくさんあるのだから、まずは知らなければいけない。恐ろしくても、見なくてはいけない現実がある。
努力すれば、知らない世界のこともわかるようになるはずだ。そう思った私は、学校の外に広がる世界に踏み込んだ。
違う学校の同世代と接する機会を求めて、学校外の活動に参加するようになった。親と先生以外の大人にも、初めて出会えた。
「儲からない仕事なんだよ」と言いながら人生を映画づくりに捧げていたり、自分の研究領域について嬉々として話し続けたり。
身近にあまり楽しそうな大人がいなかった私にとって、自分がやっていることを楽しんでいる大人は、新鮮な存在だった。
目を背けたくなる現実を映し出す映画を、「観なくては」と覚悟を決めて一人で観に行った。頭痛でふらふらしながら、映画館からの帰り道を歩いた。
母に連れられて、学者やドキュメンタリー作家の話を聞きに行くようになった。
政治思想や死刑制度の是非、哲学の歴史をテーマにしたトークには知らない固有名詞ばかりが並び、しばしば眠くなっていたが、自分のわからなさを自覚するにはうってつけの場だった。
そうやって焦りと不安を抱えながらわからなさに体当たりするスタイルは、常に苦しさが伴った。
どんなフィクションでも「私が知らないだけで、これがフィクションではない世界がどこかにあるのかもしれない」と思うようにした。でもその現実に耐えきれなくて、しばしば吐き気に見舞われた。
わからないことと向き合うのは、いつだって恐ろしかった。
いつの間にか、わからなさを見て見ぬふりするようになった。
社会人になった私は、都合のいい目隠しを手に入れた。
朝起きたら無難な服装に着替えて、駅まで走って、いつもと同じ満員電車に乗って、職場に着いたら今日のタスクを確認して、与えられた役割を果たす。
東京のベルトコンベアに乗っていれば、そこに「わからない」ことなんて存在しない。
そう思わないと、毎日をやり過ごせなくなっていた。世の中は、正解とゴールが存在していた受験勉強よりもずっと難しい。
「ここにいさせてもらえるだけでありがたい」と言葉の刃を全身で受け止め、目の前で崩れ落ちていった上司。「逃げてください」と叫んだ声は、届かなかった。
いつも要領よく仕事する人気者でありながら、寿退社の直前に「人生このまま終わっていくのかな」と一人でつぶやいていた金髪ギャル。ミートソースのレシピを教えてくれたあなたに、私はどんな選択肢を伝えられたのだろう。
10年越しの夢を叶えたはずが、家には毎日着替えに帰るだけになって「もう死にたくなるよね」と漏らすかつての同級生。その言葉が軽くないことを、さすがに感づいた。
私が私を守るために「わからない」に蓋をし続けた結果、気づけば大切だったはずの何かが、ぽろぽろと手のひらからこぼれていた。彼らに何か伝えられるだろうか、と思っても、ベルトコンベアは同じ道をなぞり続けるだけだ。
彼らがほんの少しだけ光を見出せるかもしれなかった抜け道は、きっとこのベルトの外側にある。
でも私はその外側を見て見ぬふりしてきたから、「あっちに逃げられるかもしれないよ」とすら言えなかった。
この世界には、わからないことがある。
心が灰色になっていた私にそう思い出させてくれたのは、牛とともに生きる酪農家さんだった。
あるとき、北海道の牧場で一週間過ごすことになった。そこに広がるのは、何から何まで初めて尽くしの世界だった。
朝4時には外に出て、仕事がスタート。牛を立たせて小屋に誘導し、後ろ脚で蹴られそうになりながら、搾乳の機械を付けさせてもらう。これを朝晩2回。
どうすれば牛が思うように動いてくれるのか。牛が食べた草はどんなペースで復活するのか。どうなったら牛が病気だと分かるのか。草を食む牛は、何かを考えているのだろうか。
だいたいのことは、さっぱりわからなかった。そして酪農家さんは、「わからない」という事実を受け入れていた。
何しろ天気も草も牛も、思うようにならないことだらけなのだ。
努力すればなんとかなると思っていた私にとって、それは衝撃だった。なんで自分をあきらめられるのだろう、と不思議だった。
でもどうやら、限界を受け入れることは、あきらめとは違うらしい。だって酪農家さんは、自分がわかる範囲のことをぜんぶやっていた。
草がどう育つかわからないから、草の生長を計測する機械を取り入れていた。牛がいつ体調を崩すのかわからないから、毎日すべての牛に声をかけていた。
できることに手を尽くすから、何がおきても受け入れられる。受け入れる覚悟を決めるために、手を尽くす。「わからなさ」と向き合うことは、自分の大きさを知ることなんだと思った。
私はこの牧場で、東京のベルトコンベアから降りると決めた。
そして酪農家さんのように「わからない」と向き合っている人の話を聞きたくて、フリーランスのライターになった。
今では、「わからない」が私のスタート地点になっている。
生まれ育った首都圏を飛び出して初めて地域で暮らし始めたら、そこにはわからないことしかなかった。
車の運転、蛍が見られる場所、田んぼのなかを歩くコツ、虫刺されへの対処、山菜の食べ方。
この世界には、知らないことがたくさんある。
地域の何もかもが新鮮に映っていた私にとって、ここで生まれ育った人の「ここには何もない」という言葉がわからなかった。
その人たちにとっては同じように、私がなんで東京から地域に引っ越してきたのかがわからないのだ、と理解した。
それから、「なぜここにいるのか」を常に問われる日々が始まった。
生まれ育った環境も、積み重ねてきた経験も、生きてきた年数も、何もかもが違う相手と向き合い、自分が何者なのか、どう生きたいのかを伝える。
お互いにわからないのだと自明だったからこそ、少しでもわかりたくて「こう言ったら伝わるかな」「この体験なら近い感覚があるもしれない」と模索した。そうやって一緒に育てていく関係の強さを、信じられるようになっていった。
時には、「わからない」「わかってもらえない」と絶望するかもしれないけれど。
「わかりたい」という二人分の願いがあれば、一人では出合えなかった新しい色を見つけられるのだ、と初めて知った。
わからないことが恐ろしかったあの頃と比べたら、ずいぶんと年齢を重ねた。でも相変わらず、世界にはわからないことだらけだ。
この夏は、初めてズッキーニを食べ、初めてサウナに入り、初めてテントに泊まった。鹿のレバーを、おそるおそる食べてみた。お腹は壊さなかった。
「わからなさ」と出合うと、自分の大きさだけでなく、世界の大きさに触れられる。
見たこともない景色、聴いたことのない音楽、食べたことのない味、嗅いだことのないにおい。
そういうものに出合うと、まだ見ぬ世界の大きさを想像して、今でもときどき恐ろしくなる。
わからなさに一人で立ち向かおうとすると、あのときみたいに怖くなって、足がすくむ瞬間だってある。
でも今は、「わからない」の先にあるまだ出合っていない色を、隣にいる人と手を取り合って見つけに行けばいい、と思えるようになった。
もちろんその人のことだって、わからない。
でも、わからないから一緒に始められる。
あなたとわたしで、きっと積み重ねていける。
そう信じられるようになった。
「人生のわからない、を増やす」
日本全国を編集するチーム・Huuuuがこう掲げるなら、そこに関わる私は、誰かの「わからない」を増やせるきっかけをつくりたい。
あのとき、わからないことが怖くて吐きそうだったわたしに。
わからない世界を見て見ぬふりし続けた結果、大切な人たちに抜け道を示せなかったわたしに。
わからないことがあるから、生きていたくなるときもあるんじゃないかな。誰かと一緒なら、わからなさをおもしろがれるかもしれない。「わからない」があるから、きっと歩き出せるよ。
そう伝えたくて。
文/菊池百合子
写真/TANI IS GOODNEWS