怒りかたがわからない | 怒りのさすほうへ
生まれてこのかた30年、のんびりつつがなく生きてきた。それゆえの悩みが近ごろ浮上している。「怒れない」ことだ。
振り返ってみても、とんと怒った記憶がない。たいていのことは「まあいいか」とスルーしてきた。しかし、よくよく考えてみると「ムカつく」あるいは「機嫌を損ねる」のような瞬間がないわけではない。だから、怒りの感情自体は持っているはず。なのになぜ、怒れないのか?
「怒る」を分解してみると、「自分の中に怒りの感情が湧く」→「相手に向けて怒りをぶつける」となる。怒りの感情があるのに「怒れない」となると、つまり自分にないのは後者の要素だ。怒りを表に出さず、自分のなかでうまく処理することを続けてきた結果、ついには怒り方がわからなくなってしまったらしい。
ただ、目下の仕事や立場上、そうもいかなくなってきた。早い話が上司に「もっと怒れ」と言われたのだ。最初は「なんで怒らなければ?」と思った。できればムカつかずに生きたいし、極力平和に生きていたい。怒るのは疲れるし。しかし続く上司の言葉を聞いて、なんとなく合点がいった。
「喜怒哀楽は人を惹きつける。怒りは責任が伴う優しさでもあるのだ」と。
編集者として本気でいい記事を作るためには、ほめてばかりではいられない。時としてライターにとって耳の痛い言葉も言わなければならない。もちろん「耳の痛い=怒りに任せて感情をぶつける」ではないが、駄目なものを駄目と言うことから逃げるのは確かに違う、と思った。
人対人の真剣なコミュニケーションから生まれる関係も、得られる仕事の成果もあるのをこれまで見てきた。だから「いい怒り」というのは確かにあって、「怒らない」ことはそこを切り捨ててしまっている行為でもあるのかもしれないな、と。
ちゃんと怒れるように、今までやり過ごしてばかりだった自分の中の「怒り」に敏感になりたい。それから「いい怒り」が何なのかを考えたい。ということで、これから「怒り」をテーマにコラムを書いていくことにした。お付き合いいただけるとありがたい。
(文=友光だんご、写真=小林直博)